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2012年02月26日

ニ・ニ六事件

今日も元気なみっちぃです!!

再び冬の天気に逆戻りをして、雪が降り続く金沢市です。

さて、今日は76年前になりますが、国を揺るがす大事件が起きた日なのです。
昭和11年(1936年)2月26日、大雪が降る東京の都心部で起きました。
政府の方針に不満を持つ、陸軍の将校達が率いる反乱軍が、永田町一帯やその周辺の政府関係者を次々と襲い掛かり銃殺してしまいます。また朝日新聞有楽町本社にも押し入り、活字台をひっくり返すなど暴動も起こしました

ついには、首相官邸までに反乱軍は押し寄せますが、当時の岡田啓介首相は身代わりの秘書の松尾傳蔵氏により、難を逃れます…松尾氏は身代わりとは気づかれずにそのまま銃殺されました…
(旧首相官邸には、現在でも当時の銃弾の跡が残っています)

永田町一帯に『国会改造を要求する!!!』と反乱軍が占拠をして、東京の街は大混乱に陥ります。

市内電車の全てが止まり、株式市場の取引は全てが停止してしまいます。

『サザエさん』の作者の長谷川町子さんも、銃殺された高橋是清大蔵大臣邸近くにあった山脇高等女学校に通っていたため、包囲している兵隊達に追い返され、結局学校へは行けなかったらしいのです。

翌日になると、戒厳令が敷かれ、ラジオが『お前たちに告ぐ!!!』とアナウンサーがひたすら反乱軍の投降を呼びかけるようになります。

自分達の行為が正しいと信じていた兵隊達は、次第に操られ騙されていたことに気付き29日までには、全ての部隊へと帰ります。

収拾がついたかに思えたこの事件により、陸軍の発言力がさらに強まり、戦争へ戦争への道を日本は歩んで行きます…

最後に事件当時にまつわる話をもう一つします。

タレントの青島幸男さん(いじわるばあさんの当たり役)のご実家は、日本橋にあった『弁菊』という仕出し屋をしていました。

当時の文部省などにも取引があったそうなのですが、何と!青島さんのお母さんが、兵隊たちが占拠している文部省へ、そろばんと出納帳を持って、単身で乗り込んだそうです。

『あんたたち!!!よくも家の商品を勝手に食べたねーっ!!!』

あまりの迫力にあっけに取られた兵隊たち。

お母さんは全ての兵隊たちから食べた分だけの料金を徴収したそうです。

『毎度ありぃ〜』

その度胸凄すぎます!!!

日本は多難な時代をくぐり抜けてきました。このニニ六事件のことは、実際には人々の記憶から消えようともしています。

しかし、戦争が始まる理由には全てにおいて、何らかの原因があります。

その原因を忘れてしまうと、なぜ戦争が始まったかわからなくなってしまいます。

忘れることは、再び悲劇が訪れるということ…

二度と悲劇を繰り返したくないことを、少しでも皆さんにお伝えしたく、昭和語り人のみっちぃが今日の出来事を書きました。

長文でしたが、最後まで読んで頂きまして、本当に有り難うございましたm(__)m  

Posted by 三井 浩司郎 at 14:14Comments(0)

2012年01月17日

祖母の実家

今日も元気なみっちぃです!


相変わらず寒いですね〜!しかし北陸の寒さには既に慣れっこになった、昭和のシティーボーイでございます。


さて、最近私の周りで『山口県』の話題が上がったので、懐かしい祖母の実家のお話をします。


私の母方の祖母は、大正5年、現在の山口県山口市上嘉川と言う場所で生まれ育ちました。


祖母の実家は、藩政時代には、村の庄屋を務めていただけあって、それに纏わる品々がたくさん残っていました。


旧山陽道に沿った場所にあり、家屋敷も広いひろい…

家の中で探検が出来ました。


蔵の中に入ると、地元名産の『大内塗』のお盆がたくさん重ねてあったり、史料館級の書物があったりしました…(年貢を誰がどれだけ納めたかを記した、いわゆる江戸時代の台帳です)

またお風呂も、五右衛門風呂で、薪をくべてゆっくりと沸かす、東京育ちの私にはなかなか経験出来ない楽しさがありました。


お湯も柔らかく、肌に優しくいつまでも入っていたい気分にさせてくれました。

その気持ちにさせてか、真裏に、山口県の大動脈、山陽本線が通っているので、お風呂の窓を開けて眺めていました(笑)(もちろん小学生の時ですよ!)


寝台車や貨物、そして普通電車が、引っ切りなしに通るので、それは楽しくて楽しくて…


祖母の姉(大おば)が心配になって見に来て、お風呂の引き戸がガラッと開き『浩くん(こうくん)!!あんたあ〜いつまでも出てこんけぇ、のぼせて倒れとるかと思うた〜』と言われたぐらい、気づいたら長く入っていました…


そういえば、お湯も冷めてました…


そんなこんなで、この家屋敷は、私にとったら、昔の物が直に触れられる、まさに夢のワンダーランドでした。


家を守っていた大おば夫婦も今は亡く、子供もいなかったので、家屋敷はそのまま空き家で残っているそうです。


私の大学時代まで、よく祖母の実家に通っていたので、機会があれば、童心に返りまた探検してみたいな…

今日は『祖母の実家』のお話でした。最後まで読んで頂きまして、本当に有り難うございました。  

Posted by 三井 浩司郎 at 01:01Comments(0)

2012年01月14日

けーちっ!!

今日も元気なみっちぃです。

昨日からの雪は朝までには止みましたが、やはり寒いですね。


さて、やって参りました『みっちぃのおもしろ方言講座』でございます。

本日は、学生時代に過ごした鹿児島の方言!

日本でも難解な方言で有名ですよね(笑)

題名にも書きましたが、『けーちっ!!』とは一体何のことでしょう…

決して『ケチな人』ではありません。

実は、少し怒り気味になって『来いと言ってるだろう!!』と、呼んでいる人に対し、発する言葉なのです。

大学生の時に住んでいたアパートの、大家の範雄父さんの、ある日の会話(2階建の家で、大家さん一家は一階に住んでいた)

『ゆうた〜っ!け〜っ!!(息子さんの名前)け〜っは来なさいと言う意味』

お父さんが外で息子さんを呼んでいました。

『ゆうた〜っ!ゆうた〜っ!!』

一向に息子さんの返事がありません…

ついに…

『けーちっ!!』

それにしても、けーちっ!!で、来いと言っているだろう!!と言う意味になる、言葉も凄いと思います。
鹿児島弁の特徴は、とにかく言葉を省略する傾向があります。

灰もへっ、蠅もへっ、肩甲骨もへっ…

口もくっ、首もくっ、釘もくっ…

なので、『くっが、痛てが…』と言われても、一瞬わからないことがありました。

け〜っも、『け〜をけけけ…』と代表されるように、『貝を買って来い!!』と、省略されてしまいます。
本当に慣れないと同じ意味に聞こえて混乱します。

大家の睦美母さんもこんなことを言っていました。

下の台所の窓から、『チャンポンくるっで、け〜っ!!』(チャンポンをあげるから来なさい!!)

鹿児島県民は、言葉を省略する会話で、いち早く情報を得ています。

今日は、鹿児島弁のお話でした。最後まで読んで頂きまして、ほんなこつ、あいがともしゃげもした(本当に有り難うございました)  

Posted by 三井 浩司郎 at 16:34Comments(0)

2012年01月02日

救急車

昨日元旦から、我が家の前の大通りは、いつもにも増して朝晩と救急車がよく通ります…


餅を引っ掛けたり、飲み過ぎの事故なのかと心配になりますよね…


以前聞いた話ですが、お雑煮の餅は焼いた方がまだ喉に引っ掛けにくいらしいのです。


しかし、金沢は焼かずにそのまま餅を入れる文化。トロッと喉に入りやすいので、少し細かくしても良いかもしれません…


お年寄りだけではなく、年齢問わず餅の事故はあるので、注意して行きたいですね。  

Posted by 三井 浩司郎 at 21:28Comments(0)

2012年01月02日

箱根駅伝

今日も元気なみっちぃです!!


明けましておめでとうございます。本年も昨年に引き続き宜しくお願いを申し上げます。


新年最初の日記です。金沢は時々、霰が降ってきます。

さてさて、毎年お正月恒例の箱根駅伝が始まりましたね。


実家の父は、『箱根駅伝』の大ファンで小さい頃から一緒に観ていました。朝早くからテレビから離れず見入っていて、父は山梨県出身なので『山梨学院大学』をひたすら応援しているのです。


亡くなった祖母も箱根駅伝の大ファンで、山梨学院大学の『オツオリ選手』がお気に入りであった…


祖母の家の近くにあるスーパーで、重ねてあった品物を、取りにくそうに祖母が手を伸ばしていると、『どうぞ』…とスッと品物を取ってくれた人がいたそうです。


その人こそ『オツオリ選手』だったそうです。


それ以来祖母はファンになり『オツオリはいい青年だ!』とずっと言っていました…


私は、小田原を過ぎて、箱根の峠で、選手たちは登山電車が踏切を通り過ぎるまで、足踏みをして待っていたことと(現在は逆に電車が待っています)、民宿を経営しているという『旗振りおばさん』を覚えています。


選手を一生懸命に追いかけて、旗を振るおばさんでしたが、実家の家族は記憶にないと言いますが、私は物凄く印象に残っているのです。


どなたか覚えていませんか〜??


最後まで読んで頂きまして、本当に有り難うございました。  

Posted by 三井 浩司郎 at 11:22Comments(0)

2011年12月31日

幻の紅白歌合戦

今日も元気なみっちぃです。


久しぶりの日記です。大晦日だけあって、街はせわしなく動いていますね。私も自転車であちらこちらで用事を済ませて来ました。


さて、今年も『第62回紅白歌合戦』の時間が迫ってきていますね。皆さんはどの歌手を応援しますか?


第1回目は、昭和26年1月3日午後7時半から、当時はラジオ放送で、7対7の歌手の配置で始まりました。


それ以前に、たった1回だけ、紅白歌合戦が放送されたのはご存知でしょうか…

時は終戦の年、昭和20年12月31日午後10時半から午前0時まで放送されました。


当時NHKのプロデューサーが、剣道の紅白試合をヒントに、男女別に分けたのが始まりだそうです。


しかし、終戦から三ヶ月半、ヒット曲もほとんど生まれておらず、スター歌手も、国内に残っていた人も少なく(終戦時に外地・南方や中国で慰問などでいた歌手は、そのまま捕虜として捕われていて、日本に戻れていない状態であった)


その様な状況下でとりあえず放送出来るように必死に国内から歌手達を集め、ようやく放送出来るようになったそうです。


歌だけでなく、楽器演奏のみの出演者の方もいたらしく、尺八やマリンバを打ち鳴らしていたそうです。


歌手としたら、宝塚や松竹のスターや、芸者歌手、後にみ〜かんの〜花が〜咲〜い〜ている〜童謡『みかんの花咲く丘』を歌うことになる、川田正子さん、当時唯一のヒット曲『リンゴの唄』並木路子さん、などでした。


司会者は喜劇俳優の、古川ロッパさん、ターキーこと水の江滝子さん(石原裕次郎さんなど後のスターを見出だしたすごい人)


好評も博し、無事に終了出来たのですが、問題が起きました。なんと!出演者達の帰りの車が全く手配出来ていなかったのです。


司会者2人にはどうにかポンコツタクシーが用意出来たものの、残りはどうしても手配出来ず、仕方なく、スタジオで出演者達が雑魚寝状態で、泊まったそうです。


(当時は、終戦後の混乱で今より大変治安が悪く、夜中の一人歩きは、すぐ強盗などに襲われる危険があった)


てんやわんやの紅白歌合戦だったのですね…


また裏話があり、当時のGHQが番組自体に難色を示したそうです。(占領下において、放送業界も検閲があった)


『紅白歌合戦とは何事か!また戦争を起こす気か!!』


合戦を『バトル』と翻訳したことが原因らしいです。


そして『紅白音楽試合』と名称変更して、放送許可になったそうです


今年は、紅白どちらが優勝するのでしょう…


最後まで読んで戴きまして、本当に有り難うございました。よいお年を…


  

Posted by 三井 浩司郎 at 18:42Comments(0)

2011年12月16日

ライブ告知

12月17日(土)19時開演 19時半開始


出演 CROON 村本守 三井浩司郎


松任車遊館向かい側『ホンキーハウス』


石川県白山市徳光町2391ー1



12月18日(日)14時〜14時54分
FMかほく78・7『三井浩司郎・歌の花束』公開生放送

アルプラザ津幡特設ステージ


出演 橙 三井浩司郎
司会 森幸子


お時間ございましたら、ぜひぜひ起こし下さい。宜しくお願いします  

Posted by 三井 浩司郎 at 19:17Comments(0)

2011年12月14日

とぼけた運転手

今日も元気なみっちぃです


朝は寒かったですが、昼は結構暖かい日でしたね。


さて昼過ぎでしたが、とぼけた運転をするタクシーに乗ってしまいました


金沢市付近の方ならお分かりと思いますが、鱗町から中村町までの乗車でした。ところが…


片町を通り越しての方向から見て、元車交差点を左折して御影大橋ではなく、右折をして金沢駅前へ行こうとしたり、中村町に入るには右折出来ないから、駅前方面へと曲がったとか訳のわからないことを言ったり(行きたい場所は、右折禁止ではない場所)


中村町は北陸線の線路の向こうと言い出す始末…

しっかりと道順と目的地の説明をしたのですが…


良くわかりましたよ〜、と言っていたのですが…


初乗り560円のタクシーで鱗町から中村町付近の相場が800円ぐらいです。料金がかなり上がりそうだったので、720円で切ってもらいました。


しかも、本当に線路の向こうに行きそうだったので、目的地からかなり離れた場所でしたが危険を感じ、停めさせました…


お釣りは間違えるし、お金を数え方も時間かかるし…

家を時間に余裕を持って出たのに、お陰で『歌の会』に遅刻しそうでした…


私が降りようとした際、その運転手は『どぼけた運転手でごめんね〜』


え〜んな!だら〜っ!!


全く持って珍事件でした

最後まで読んで頂いて、本当に有り難うございました
  

Posted by 三井 浩司郎 at 19:21Comments(0)

2011年12月09日

雪の降る町を

雪の降る町を 雪の降る町を 思い出だけが 通りすぎてゆく 雪の降る町を 遠い国から落ちてくる この思い出を この思い出を いつの日か包まん あたたかき しあわせのほほえみ…


雪の降る町を 雪を降る町を 足音だけが 追いかけてゆく 雪の降る町を ひとり心に満ちてくる この悲しみを いつの日かほぐさん 緑なす春の日の そよかぜ…


雪が降ると心躍る私です。雪を唄う昭和歌謡曲はけっこうあります『昭和語り人』がまたご紹介をして行きますね  

Posted by 三井 浩司郎 at 20:55Comments(0)

2011年12月08日

忘れないで下さい

今朝も元気なみっちぃです!!


冷えますね〜これが本当の金沢の寒さかと思います。


さて、皆さんにお伝えしたいことがあります…


題名にも書きましたが、『忘れないで下さい』…


70年前の今日…12月8日…日本がついにアメリカイギリスとの戦争の火蓋が切られた日なのです。


昭和16年12月8日(月曜日)午前7時、大変寒い朝のことでした…


日本中の家庭では、いつもと変わらず、朝食の時間でした…


ラジオから不思議なニュースが流れました…


『ただいま7時の時報をお伝えしました…しばらくお待ち下さい…』


『ポ〜ンポ〜ンポ〜ンポ〜ンポ〜ン!ポ〜ンポ〜ンポ〜ンポ〜ンポ〜ン!』


『臨時ニュースを申し上げます!臨時ニュースを申し上げます!大本営陸海軍部、12月8日午前6時発表!!帝国陸海軍部は、本8日未明、西太平洋(ハワイ)に於いて、アメリカイギリス軍と戦闘状態に入れり!帝国陸海軍部は、本8日未明、西太平洋に於いて、アメリカイギリス軍と戦闘状態に入れり!臨時ニュースを申し上げます!臨時ニュースを申し上げます…』

館野守男アナが緊張した声で、必死にマイクに向かい、臨時ニュースを読み上げました…


先日の朝の連続テレビ小説『カーネーション』の一コマにもありましたが、みんな箸を止め、緊張した赴きでラジオに聴き入っていました…


当時の日本中の家庭で起きていたことであったと思います…


以前より、アメリカとの戦争は囁かれていました…


まさか現実になるとは…いよいよ来るべきものが来た…


ラジオから流れる『軍艦マーチ』でより緊張感が増し、日本は絶対に勝つ神風が吹く


不安ながらも、戦勝に沸きました…


しかしこれが地獄への道とは思わずに…


家族との突然の別れがあるとは知らずに…


現在は家族との在り方を問われる時代です。


この時代にも普通の平和な家族がありました…

時代時代にそれぞれの価値観はあります…


戦争時代だから、お国に尽くして、戦争に協力してとんでもないことをした国民だけだと片付けて欲しくないのです…


一番恐ろしいのは、戦争でごく普通の家族の絆が引き裂かれることなのです…


忘れないで下さい…争いが一つの国を滅ぼすことを…忘れないで下さい…大切な家族がいなくなることを…

昭和語り人からのお願いです…


最後まで読んで頂きまして、本当に有り難うございました。
  

Posted by 三井 浩司郎 at 07:27Comments(0)

2011年12月07日

こんばんは

12月5日より始まりました、三井浩司郎のブログは、昭和初期の歌やお話、私の日常生活から見た何気ないこと、ライブ告知など思いたったらすぐに書いて行きます。


皆さんに少しでも楽しんで頂けるのであれば、嬉しい限りでございます。


今後とも宜しくお願いします。


平成23年12月7日

三井浩司郎
  

Posted by 三井 浩司郎 at 19:43Comments(0)

2011年12月05日

初めまして

三井浩司郎公式ブログ、本日発動です。宜しくお願いを申し上げます。  

Posted by 三井 浩司郎 at 15:45Comments(0)日記